●33.昔の友の友情で「足を洗う」

 「ヤクザの組長の個展」か。
ええやないか、世間の笑いものになったろうやないかい。
ワシこないな気分でとにかく絵を描き始めた。
 というても、ワシも組の用事はあるわ、若い衆には嫌がられるし、
みんな寝静まってから、事務所で一人で電気つけてごそごそ描き始めるんや。
なんせ慣れんことやから肩も凝るし、腰も痛い。しまいには腕も上がらなくなってしもうた。
 いろんなの描こう思うけど、やっぱり子供の時分に見た田舎の景色ばっかり浮かぶ。
特に夕暮れとか、朝焼けや。
 大阪に来て白球を追っておった時も、刑務所に入っていた時も、
西の空が赤うなったら、もう故郷のことが恋しくなる。
 人間ちゅうのは汚れれば汚れるはど、心がすさめば、すさむほど、
純な時のことをとにかく思い出すわけや。そんな絵ばっかり、50枚くらいできた。
 その絵を、谷本に全部見せたんや。
「アッちゃん、これいけるで」谷本の目は本気やった。
そないして、谷本は一息おいてからワシにこうゆうた。えらい真剣な目やった。
 「アッちゃん。切った、ハッタ、義理や、人情やなんてな、高倉健の映画の中だけのことやで。
もう50の年になるんやし、僕たち友達に心配かけんと、安心さしてや。ヤクザやめたらどないや」
 ワシ、びっくりした。ヤクザやめるなんて考えたこともない。谷本の目が穏やかになった。
「アッちゃん、絵でも描いて世の中になんか残しや。僕がアッちゃんとゆっくりしたい思うても、
肩並べて町も歩かれへん。僕のこと思うてくれるんやったら、本気で考えや」
こう言うと、谷本の目は潤んどった。
 これが全身にガーンとこたえた。考えた。
オレの体はもう汚れきっとる。彫りもんも入っとる。前科もある。10本の指さえちゃんとそろっとらん。まして本家では何本かの柱のひとつになっとる。若い衆もおる。
 堅気になる、まして絵描きになるなんて、とてつもない問題や。とっても考えられんことや。
まいったなー思うて、そりゃ悩んで悩んで、悩み倒しましたがな。
背中の彫りもんの金太郎さんも熱だして、うんうん唸りだしたぐらいや。
 そないして悩んでおったら。
何十年も音沙汰なしやった浪商時代の野球部の友達から次々と連絡が入ってくる。
「谷本から聞いたんや。
アッちゃん、堅気になるんやてな。よく決心したな。あとのことは何も心配すんな」
「アッちゃん、命懸けで堅気になれや。
アッちゃんは人より強い男やろう。なんでもでけんことはないやろう」
「絵描きになるんや。ごっつい個展開いたる。これがアツムの堅気の第一歩や」
なかには「アッちゃん」とゆうてそのあとの言葉が続かずに、わいわい泣きよるやつもおった。
ワシもわいわい泣いてしもうたがな。
終 章
「堅気になる。絵描きになる」
このやっかいな決断は、谷本はじめワシの友人たちの友情のたまものやった。
 ワシはまず、最初に女房に相談した。
「オレ、ヤクザやめるで」けど、女房は信用せん。
そりゃ、そうやろう。かつて、
「女房、子供捨ててもヤクザはやめん」
と言い切ったワシの性格は女房が一番よく知っとる。
 「オレ、ヤクザやめるで」ワシはもう一度言った。
「ワシ、ヤクザやめる…」
あんまりひつこくゆうもんやから、女房もほんまかもしれんと思い始めたのやろう。
 「そやけど、ワシ、ヤクザやめてもやっていけるかな、
谷本や柿田が力になってくれるとゆうてるけどもな。これ以上迷惑かけられんし、
これまでも、実の兄弟もしてくれんようなことしてくれたもんな」
ワシ、そんなことをポツリポツリ言ったんや。
 女房が言った。
「パパ。死んでもこの恩返しせないかん。パパは強いんやから、やれると思うわ。
世の中にはパパより弱い人でも、大勢、しっかりやってるんやから、パパにできないわけはない」
「そうか」
 ワシは五分の腹づもりはできた。けど後や、後の始末や。これは死ぬ気でやらなならん。
「おい、けどまだ田舎のお袋にだけは聞かすなよ。びっくりしてしもうて、
それがショックで死んだら、これ以上の親不孝はないもんな」
 25年間、連れ添うた女房とこれだけ真剣に話したのは、後にも先にもこの時だけや。
ワシはとにかく前向きに考えた。
とにかく、堅気になる、絵描きになる。ほんまもんの前向きや。死ぬことになっても、悔いはない。
 こない思うたら、気が楽になった。
諏訪組のなかでも、特に仲良うしとる桜井好孝若頭のところへ行くことにした。
 ことの事情を説明した。
若頭は、最近のワシの様子から察していたかのようにこないゆうた。
「これから、一緒に力を合わせてやっていきたかったのに、残念や。
そんなええ友達も、絵を描く才能もあるんやし、オレとは違う。残念でしゃあないけど、やりや」
頭の目には涙が浮いておった。温かい男の涙や。
 ワシは頭の前に手をついて、
「えらい、すんません。おおきに。
決して頭の気持ちを無駄にはしません。頭も体を大事にして、日本一の親分になって下さい」
「おおきに、兄弟の分も頑張るわ。これからワシ、親分に電話入れとくさかい」
とゆうて、駅の近くまで送ってもろうた。
 それから、ワシは電車に乗って、西宮にある親分の自宅へ行った。
電車の中で、頭の言葉を思い出し、うれしゅうなって、涙がポロポロ出てくる。
恥ずかしいも何もない。前の座席に座っているお客さんの姿さえよう分からん。
 これからや、頭は理解してくれた。残る若い衆のことも保証してくれた。
親分はなんと言うやろう。あれやこれや思いながらワシは電車に揺られた。
 諏訪組、二代目組長、有末辰男親分はガウンを羽織って2階から降りてきた。
降りてくるなり大きな声でこないゆうた。
「今、頭から電話もろうた。
けど、アツム、季節の変わり目で頭がおかしくなったんとちゃうか」
ワシはきちっと正座して、
「親分、堅気にさしてください。
けじめが必要やったら、指でも手でも足でも、どんなカッコでもつけます。
けど絵を描くためにこの右手だけは残しておいてください」
 親分はえらい目でワシを見据えた。ワシも真剣や。一世一代の真剣さや。
「他のすべてのヤツらが堅気になっても、おまえだけは極道を続けると思うた」
親分は一瞬、淋しそうな顔をした。
 ワシは必死や。
「必ず日本一の絵描きになってみせます、親分」
「よし、分かった。きっちりと足洗え。盃もきっちりと返してもらおう。けど今の言葉忘れるな。
これはヤクザの親と子の約束じゃない、オレとおまえの男の約束じゃ」
 ワシ、次の言葉が出てこん。
ヤクザ社会では親と子の「盃」ゆうのは絶対や。ワシはここでもう一度、真の男の器量を教えられた。
親分だけが持つことのできる、ほんまもんの器量や。帰りぎわに親分はこないゆうてくれた。
 「アツム、絵の個展を開くときは、ワシにも案内状を送ってくれ。
若い衆連れんと、女房と二人きりで見にいかせてもらう。けど会場で、ワシの姿みても挨拶するなよ」
ワシ、もう言葉がない。深く深くお辞儀をしただけや。
 そして次は辛い別れや。若い衆になんと言えばええか。
ワシは一ヶ月間、悩んだ末、色々話し合うた。若い衆はワシが堅気になることを許してくれた。
「ワシ、3年間、刑務所に入ったつもりで、死に物狂いでやる。
何の力にもなれんが、辛抱してくれ」
最後に、ワシは初めて若い衆の前で両の手をついて詫びを入れたんや。
 ワシがヤクザやっておって築いたすべてのもの、
義理、人情、憎愛、シノギ、面子、すべてを捨て、ワシは裸一貫になった。
残されたものは、前科、刺青、なくなった2本の小指とすべて負の遺産や。
 ヤクザとの決別。ワシ、考えた。悪いことばかりやってきた。
ワシの知るところ知らんところ、大勢の人の恨みを買うてきたやろう。
無数の恨みがワシに「地獄に落ちろ」と囁いておる。
ワシ、そのすべての業と正面から向かい合って生きていかなならん。
苦しゅうなった。息ができん。押しつぶされる。
 ワシ、筆をとった。お地蔵さんの絵を描いた。
むやみに描いた。ただ一心に描いた。ワシにできることは絵を描くことだけや。なんちゅう辛いことや。
こないして描きとめた絵が100枚になった時、
ワシの友人たちはえらいごつい最初の個展を開いてくれた。しかもすべての絵が完売や。
 後戻りはもうでけん。
ワシの絵がええ絵なのか、どうなのかほんまゆうたらワシはまったく分からん。
物珍しさが優先して買うてくれる人も多いやろう。けど、これかて感謝せなならん。
 ワシ、もう野心も物欲もない。ただたったひとつだけ夢がある。
日本全国の家にワシの絵が飾られる。その絵を見た人が辛くなったり、挫けそうになった時、
ワシの絵を見て、
「あんな人でもできたんや」と思うて自信と勇気を取り戻す。こないな絵を描きたいんや。
ワシはやるで、絶対にやる。
ワシは学問もない、師と仰ぐ人もいない。
この汚れ切ったかもしれん五体のすべてを絵筆にかけるんや。
必ず、日本一の絵描きになったるんや。
なれるはずや、これほどの大勢の友の温情がワシを応援してくれとるんや。
ワシの師は数えきれんほどの友情や。日本一になれんわけがない。
                                 合掌

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