● 9.練習量だけは浪商に負けん

 智辯学園ゆうたら、今でこそ野球で有名やが、ワシが初代監督を引き受けた時は新設校だった。
1年生ばっかりの部員が150人くらいおったが、
中学ん時、野球やってたいうのは2、3人しかおらん。
ワシ、選手と父兄を集めてこないゆうた。
「おまえら甲子園行きたいんか。
 そうか、なら2、3年で行かしたる。そんかわり死んだ気でやるんや」
 野球部のグラウンドから甲子園のほうを見ると、金剛山いう雄大な山がある。
「おまえら、あの金剛山越えんことには、甲子園行けんのや!」
というて、練習に練習を重ねた。練習がきついゆうて、一人やめ二人やめる始末やったけど、
なんとかコイツらを甲子園出したろう思うて没頭した。
 実は、その頃、女房と新婚やったが、女房なんかそっちのけや。
奈良県では天理が強い。彼らは5時間練習する。こちらは伝統も実力もない。
「10時間練習して当たり前や。15時間練習して五分や。
それでも天理に勝とう思うたら、20時間やらんと勝てん。
ということは夜も眠れへん。それでも甲子園出たいんやろう」ちゅうもんですわ。
 最初は、キャッチボールも満足にできん連中やったが、ようやくバットに球が当たるようになって、
「試合したい」いう。
「なら一番弱い高校探せ」いいましてな。
しかも同じ奈良県じゃカッコ悪いから、和歌山県の伊都高校と練習試合をやった。
 うちが、先攻だった。1回表の攻撃や。1番はファウルフライ。次は、サードゴロ、3番は三振や。
さあ、1回の裏の守りや。ところが、2時間守ってばっかり。
点数なんか数えきれんぐらい、相手が入れよる。もうベンチに座ってられへん。
「すんません、迷惑かけました」とゆうて帰った。甲子園どころの話やおまへん。
 その頃、ワシの後輩で平塚ゆうのが浪商の監督をやっていた。
「山本先輩が、智辯でえらい苦労しとるらしい」とゆうて、練習を手伝いに来た。
ほかにも、山本を男にしたるゆうて先輩や同級生や、
大学に行って一流になった人まで来て野球を教えてくれる。
すると選手もやる気が出てくる。だから智辯の野球の基礎は、浪商野球なんや。
 1年たって、1年生と2年生合わせて25人くらい連れて浪商へ合同練習試合しに行った。
そしたら、浪商のピッチャーの球、だれも打てん。
その頃の浪商は弱くなっていて地区大会の3回戦で負けるようなチームになっとったが、
手も足も出ん。
それから、口では言いきれんような練習をした。
「練習量だけは浪商に負けん」これだけを選手に植え付けた。
 朝は午前4時から8時まで、授業終わったら、3時から夜の11時まで。一日12時間の練習や。
選手をみなワシの家へ住まわして寝るのは3〜4時間。もちろん毎日や。
そうやって浪商に練習試合を申し込んだ。
「おまえら、この半年間、浪商の3倍は練習した。
 負けるわけはない。もし負けよったら、死ね。死ぬ気でやれ」
選手は死に物ぐるいで試合をやった。なんとあの浪商に勝った。
気合い勝ちや。こうなると選手も自信がわいてきよる。信じられんほど進歩もする。
山本流の『勝つ野球』で夢が近づく
智辯学園は昭和41年に創設された新設校、
しかも翌年にできたばかりの野球部が創部2年目にして、あの浪商に勝った。
そらぁ選手は本気になるし、監督になったワシかてうれしい。
その後、20校以上と試合したが、いっぺんも負けん。
公式試合が近づくと、マスコミも「智辯、創部2年で甲子園初出場か」と騒いで、取材に押し掛ける。
 さあ、そないなったら、「いったれ!」ちゅうもんや。
ワシの練習方法は徹底した反復、繰り返しだった。
1アウト一塁で、バントで送る。これを毎日続ける。
いろんなケースを想定して、ひとつのことを最低1ヶ月はやる。
 例えば、9回裏の攻撃、1対1の同点で2アウト三塁や。
そないしたら、バッターはちょっとバットを長めに持つ。
相手のキャッチャーのミットにぶつかるようにバッティングする。
これで打撃妨害になって1点や。何がなんでも勝つ。これが山本集流の勝つ野球や。
 一日12時間の練習をこなし、選手は絶好調やった。気合いも十分や。
これなら甲子園に行けるかもしれん。ワシもこれで男になれる。
夢がかなえられる。そないな確信があった。
 ところが、ある日の朝、いつも通り午前4時ごろ、学校に練習に行くと、
グラウンドに新聞社の旗立てた車がようけ来とる。
「ほう、うちも強うなったから、こんな朝から取材に来るようになったんか」と思うて鼻高々や。
記者たちは、「この練習、まだ続けるんですか?」と聞いてくる。
なんや、おかしなこと聞きよるなと思うたが、
「もちろん、やりますよ」
と胸を張って答えた。そうすると、
「高校生は勉強もしなければいけないのではないですか?」
と聞く。そらぁ、あんまり勉強はしてないが、
「勉強は勉強でやってますがな」
とワシが答える。なんか雲行きがおかしい。しまいには、
「この練習を本当に正しいと思いますか?」と聞きよるから、ワシは、
「正しいもなにも、悪いことなんかしてまへん」ムカッとして答えた。
こないなやり取りがあった翌日、新聞にデッカイ記事が載った。
「練習かシゴキか。生徒の人権を無視した智辯野球部」
 えらい社会問題になった。高野連が乗り出してきて、野球部は半年間の出場停止になる。
ワシは人権擁護委員会に引っ張られる、警察にも呼ばれる。
こん時のショックゆうたら、大変なもんや。
監督を辞めなしゃあない。甲子園への夢はまた断たれてしもうた。
ワシは選手に泣きながら、
「監督が代わっても、おまえらの目標は変わらんはずや」
と最後のあいさつをした。選手のワイワイと声出して泣きよる。号泣や。
ワシが監督を辞めた直後や、おとなしかった選手たちが学校中の窓ガラスを割るくらい暴れ回った
ゆう知らせが入った。
「ああ、選手たちは、オレのことを分かってくれとる」
それだけがワシの唯一の救いやった。

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