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卒業後、故郷で寿司屋と庭石屋を営みながら、智弁学園(奈良県)の初代野球部監督に就任する。
浪商仕込みのシゴキで部員を鍛えたが、そのシゴキが問題化し、一年半で監督を退任せざるを得なくなる。 練習の成果もあり、智弁学園は翌年甲子園初出場を果たす。 教え子の晴れ姿を喜びながらも、失意の底にあった山本は店をたたみ、男になりたいの一心で大阪の諏訪組系淡路会に入る。 男気一本で極道社会で頭角を現し、昭和48年、33歳の若さで諏訪組系山本組を旗揚げする。 大阪では武闘派として恐れられ、約10年の刑務所生活も送る。 浪商の同級生だった谷本勲氏から、いつまでもヤクザであることを諭され、又、好きだった絵を描くことを勧められ、組事務所で絵を描き始める。 絵を描くうちに、純な子供の頃の思い出が次々に脳裏に浮かび、キャンバスに形となって現れた。 悩んだ末にヤクザをやめ、堅気になることを決意。平成元年、組を解散し正式に堅気となる。 以来、叙情的かつ壮大な画風で全国に多くのファンを持つ。 2011年(平成23年)12月16日永眠 *今までの個展歴はこちら
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