●30.義理と人情の板挟み

ヤクザ社会には、一宿一飯の恩義ゆう言葉がある。
義理、人情ゆう言葉と同じように何かというと、使われるが、
この言葉の本当の意味での使われ方は、辛いもんなんや。
なんせこの言葉の使い方ひとつで、命のやり取りをすることもある。
 たとえば、ワシは、ウチの組の若い衆には、たとえワシの兄弟分でも、なるべく世話になるな、
飯もご馳走になるな、小遣いも貰うなとゆうてきた。
 ワシの兄弟ゆうたら、若い衆からみたらオジキにあたる。
なんでオジキの世話になるなというと、一度でも世話になったら恩義というやつがついてまわる。
そないするとどうや。もし万が一にでも、ワシとその兄弟分の間に、いさかいごとでも起きたら、
ワシの若い衆は時と場合によっては、ワシのためにオジキを敵にまわさないかん。
 若い衆にとって親分のいうことは絶対や。かといってオジキにも恩義がある。
ここが辛いところや。義理と人情の板挟みちゅうこっちゃ。
ヤクザ、やっておって何が辛いかというと、この人間関係が、一番しんどい。
特に恩義を土足で踏みにじらにゃいかん場合がある。
 ワシも、こんなことがあった。
ワシの親分の淡路会の会長が、兄弟分と一緒にある仕事をやった。
親分の兄弟ゆうたら、本家の若い衆や。
しかも、組のナンバー2か3で、ワシの親分より格は一枚も二枚も上の人や。
 ある日、ウチの親分とそのオジキが一緒に仕事に出掛けて、同じ飛行機で帰って来よるゆう。
ワシは兄弟分と若い衆連れて、飛行場まで迎えにいった。
 タラップから降りてくる親分の顔を一目見るなり、ワシらはピーンときた。
親分は明らかに不機嫌な顔をしている。オジキと何かあったと、はっきりと顔にかいてある。
 「ごくろうさんです。お帰りやす」とゆうて、ワシは親分の側に寄り添うようについた。
オジキのほうにはオジキの若い衆が迎えにきとる。
向こうは向こうでオジキをガードするように囲みよった。なんやいつもと違う雰囲気が流れよる。
 一緒に乗り込んだ車の中で「親分なんぞありました」
とワシが訪ねると、親分は身震いしながら、ワシの手をしっかりと握りしめ、
「やめとけ」「やめとけ」と二度、念を押してゆうた。
 ヤクザの社会で、親分が二度「やめとけ」ゆうたら「やれ」ゆう意味や。
これ以上親分に聞くことはない。
 ワシは独自に調べた。
するとワシの親分が、そのオジキにメンツを潰されたうえ、ヘタ打たされたことが分かった。
こうなったら、本家の人間であろうが、オジキであろうが、親分をこけにさらす奴は絶対に辛抱できん。
親分のために、大仕事
親分のためや。
たとえ本家の人間であろうが、ワシがどんなに尊敬しているオジキであろうが、やるしかない。
けど行くからには腹をくくるしかない。
 ワシ、珍しく明るいうちに京都の家に帰った。
女房に、「風呂わかせ、サラの下着用意せい」とゆうて、体を清めた。
そないして、お稲荷さんにもロウソクともして、柏手をうった。
 「今回は、うまくいっても、刑務所に10年は行かなならん。ヘタ打つと死ぬことになるやろう。
けど行くんやったら寝込みがええやろう」
こないなことを考えながら、まだちっこい娘二人を抱き締めた。
 「不憫な子や。いっそのこと絞め殺したった方が、こいつらのためちゃうか」
ワシそんなことまで考えながら、そうとうきつく抱いてしもうたんやろう。子供が痛いゆうて泣きよる。
それで、我に返ったぐらいや。
 女房も何か感じたやろう。けど何もゆうてこない。
当たり前や。何かゆえばワシにド突かれるのがオチや。
 この「オジキ襲撃」は、ワシの兄貴分と一緒にやる腹づもりやった。
兄貴分との待ち合わせの場所に行った。
 けど約束の時間が1時間過ぎても、兄貴分の姿は見えない。
腹のベルトに差し込んだ38口径のリボルバーの拳銃がだんだん冷たくなってきよる。
そのせいか下腹部がやけに重たい。何度も尿意をもよおした。
 兄貴分はついに現れない。あとで聞いた話やが、そいつは元気な子供を無理矢理病気にして、
救急車を呼び付けて病院へ行ったという。なんや頭がええ。できたらワシもそないしたかった。
けど今まで、誰もワシにそないなことは教えてくれん。
ワシが教わった極道教育の中にはそんなことはひとつもなかった。
 ワシが教わったには、ただ闇雲に、
「行け!何があっても行け!」ということだけや。
 しゃあない。ワシひとりでオジキの家に行った。オジキの家の前に着いたのは午前2時ごろやった。
けどオジキの家の前を行ったり来たりや。近くに駐車場がある。そのかげでハジキを確かめる。
 6連発式の弾装にはきっちりと実弾が5発入っとる。
ジャンパーのポケットには予備のタマが20発入っとる。
手のぬくもりで、冷たいはずの実弾が汗ばんでいる。
また、しょんべんがしたくなった。けどもう水滴もたれてこない。
チンチンが手で握れんほど小さくなっとる。
 煙草をくわえる。もう何本目や。もう一度オジキの家の方へ踵を返す。けどまた通りすぎた。
これから襲撃するオジキのことをまた考える。ワシから見たら物も言えん人や。
ヤクザの手本みたいな人や。いくつかの武勇伝も聞いとる。憧れておった人や。
 大仕事や。親分のためや。
「オレが死ぬか、オジキのタマを取るか」
もう煙草もない。ちびるしょんべんもない。
東の空が明るくなり始めてきた。もうこれ以上、周囲をウロチョロはできん。

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